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 投稿者:RUI  投稿日:2017年 9月22日(金)09時04分40秒
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ある修道士との邂逅

 投稿者:モナド  投稿日:2017年 9月 9日(土)08時48分41秒
返信・引用 編集済
  その1)

あの、ラジオのニュ-スを聞いたのは、1976年だった。それから25年も
経つのに、秋がしずかにしのびよる頃になると、きまって車のラジオから
突然;修道士・パィヤスさんの死亡通知が鳴り響いたように今でも、心の
引出しから流れ出す. と共に、この年老いた修道士との思い出の数々が蘇
るのです。

ある日のことです、、、ブカブカの修道服に包まれた修道士・バィヤスさん
は、ふたまわりもちいさくなった年老いた身体と顔はまるで少年のそれであ
りました。

お御堂のよこのイタリヤ杉の小道をふたりで散策していたとき、彼は小さい
声で「僕は年老いてみすぼらしくなるばかり、口にだしてはいけませんが生
きるとは不公平だとじみじみ感じるこのごろの心境です。」と囁くように云
いました。

修道院内では禁止されているけど、私は今にも崩れそうな彼の肩をだいて、
「そんなことはないですよ、みんなみんな年老いてゆきます。それだけは、
だれの人生も公平にできています。」と囁き返しました。沈黙していた彼の
落ち窪んだやさしいさに満ちた瞳から、ひとしずく、ひとしずくみちみちた
涙が青い空を仰ぎながら「神よ、僕の同胞に祝福をあたえ給え:汝のぐちを
許し給え」と。彼が ふっと吐だした呼吸はキラキラの光子粒でした。

ブラザ-・パィヤスと初めに出会ったのは盆栽の温室でありました。
彼は修道院の収入源になる盆栽を30年ちかくも作っている修道士で、その
合間にこじんまりとした本屋の係りもしていました。

私が日本人だと知ると、彼は消え入るような声で「あなたは長崎にいかれた
ことはありますか?」と云います。
はてな、この修道士は原爆の跡をしりたいのかしらとちょっとだけ息をのみ
こんだ私でした。

私が返答にまよっていると、彼は「僕が知りたいのは、キリシタン迫害地、
長崎のことです。」とさわやかな微笑で訊ねました。
それについては別に勉強したわけでもない私は正直に「長崎は自分の故郷か
ら遠くはありません。キリシタン迫害に付いてはほんのちょっとだけ聞いた
ほどで勉強はしていません。長崎は海や山に囲まれたすばらしいく美しいと
ころです。」 そうでしょう!そうでしょうと頷きながら、、、
「また、訪ねることができますか? そのときは前もつて、本屋のほうに
電話ください」。と云うと、私を誘い本屋に行くと分厚い細いながい名刺を
くださいました。

その名刺の裏に自分の名前と電話ナンバ-を書き込むと彼は温室に、そこで
お別れして一直線にのびた長い道路の両側にならんだクリの木をみて州道に
車をむけました。

おそらくこのクリの並木は20世紀の初期に植えられたにちがいありません。
なぜなら大きなクリの木のそこから離れてなだらかなスロ-プにぎっしりと
敷きつめられた芝生の中央にそびえていましたから。

この修道院は男性専用でした.  1978年代は訪問するのも男性が多く女性の姿
はまったくみることはありませんでした。それなのに何故、私が訪問するよ
うになったかといえば、わたくしの特別な友人だったバ-シャに「こんどの
日曜日にピク二ックにゆかない?」と誘われてこの修道院にくるようになっ
たのが出発点でした。

修道院領土の管理内の湖には、白鳥や鴨などが憩い、その湖畔の小さい動物
園の孔雀たちが羽をひろげた威厳を観賞しながらのピク二ックを終えると、
彼女は修道院のお御堂に案内してくれました。
このお御堂でモナドは今生最強の体験をしました。この体験は自分の心に
留めておきます。

ブラザ-パィヤスに電話して二度目に会ったのが、それから1年も過ぎたこ
ろだったと記憶にあります。
彼は休暇をいただき、私に話したいことがあると、伝わってくる声には興奮
した振動が伝わってきました。
あの大きなクリの木は新鮮なやわらかい葉をいっぱい装い、そよ風のリズム
に調和して、私たちの再会を大きな枝々を伸ばして歓迎してくれている様子
でした。

年老いたはずの修道士は、昨年よりも快活でエネルギ-も透明でした。
小脇にかかえていた書類鞄から大学ノートを取出してそのなかの一冊を私に
差し出しました。

「これは図書館にある神父セバスチャン・キムラ伝記物語から、いろんな要所
を、自分で写書したものです。彼は最後まで精神的にも肉体的にも燃えあがり
昇華して殉教しました。ご存知でしょうか?」 「キリシタン迫害のいたいた
しさは知っていましたが、宣教師の木村さんの名前ははじめてです。」そのよ
うに返答する私の無知にもおどろきの表情もせず修道士は目を輝かしながら
「神父セバスチャンと神父チャ-リの二人は大勢の人々の前で野蛮な権威者に
より火に炙られました。読んでみますか?」

ノートにはぎっしりと鉛筆で写書されていますが、彼の手書きの英文を読める
自信がないので、全部のペ-ジめくり目を通していると、彼も感じたのか笑い
ながら「僕の字には苦労さますね。僕の文字はラテン文字の癖がありますから
学生時代から読みにくいと学友からいつも云われていました。」
「ほぅ~、ラテン文学を専攻されたのですか?」
「実は両親がギリシャ人で、母が特にラテン語が得意でしから、小さいころ
から母に影響されて育つた付属なのです。」

それから修道士は。ふたりの神父が三時間もの炙り火の拷問に屈することなく、
最後まで無言のまま遂げた話を語ってくださいました。語りながら何回となく
かれは涙をながし青空に目をやすませていました。

私の頭のなかでは、雲仙の山並みそのすそのによせる波や海を思い出して、
彼の話に傾いていたので、記憶に浮かぶその映像は照ったり翳ったりでした。
彼の話が終って、、、長い時間を二人は沈黙していました。

それからどちらが提案したのでもなく、わたくしたちは肢をのばし深呼吸をし
ていると、遠方からきこえてくる白鳥の声にひかれて湖のほうに歩きだした。

その途中で、修道士は立ち止まり、「不思議な記憶がさわぎだすことはないで
しょうか?」と真面目な顔で問うてきます。
「さぁ~例えば、どうんなことでしょう?」
「生きていて考えもしないことやその瞬間まで気付かなかったことです。」
「白鳥のことばが判るとか?」 べつに自分はおどけたり、ちゃかしたりする思
いは微塵もありませんでしたが、、、彼は楽しげに身をふりながら大笑いすると、
「そうだとしたら? 十分にあることです。」
「まさか? ブラザ-が白鳥とお話になるのではないでしょう?」
「さぁ~急ぎましょう、白鳥たちが向岸に飛ばない前に、、、」

声をあげながら二人は早足にかけだした。なにを云ったのか覚えていません。

漣がひたひたと寄せては引きかえす湖畔の水面のあちこちで、白鳥や鴨が三・三・
五・五に集まっていたが、ふたりのあし音にそれぞれの首に緊張を集めて
観察していた。が、ブラザ-・パィヤスだとわかると安心して、お尻を上げて
白鳥たちは優雅に折れそうな細いあしをこうごうに動かして向かってくるその
中を、負けまいと鴨たちはバタバタ足音をたてて近づいてきました。

「よいお天気でみんなも楽しいそうだね。今日はめずらしい人をみんなに紹介
するから、挨拶しようね。」
すると驚いたことに、大勢の鴨たちが一斉にバタバタと羽音をならしガァガァ
ガァ~とふたりを取り巻いたではありませんか。そのなかに混ざった白鳥たち
が天に広げた翼はこの世とは思えない聖なる光景に、私はまるでおとぎの国の
女王さまになった気分に、暫らく浸りました。

この修道士は普通の修道士ではないなぁ~と奇妙な心境になっていると、気が
ついたときは二人は手製のベンチに腰掛けていました。

白鳥たちも鴨たちもベンチの周辺のうっすらと影った草の上に座り、おしゃべ
りなどして嘴でお互いにつつき合いをしていたが、暫らくすると、湖へと移動
していった。
静かなしずかな静寂のなかにお御堂のチャペルの音が現実にさそいこんだのか、
修道士はからだをすこしだけ横にずらして云います。

「先刻、ぼくは不思議な記憶がさわぎだすことはないでしょうかと問いました。
それをこのノ-トに書いていますが、読みつらいでしょうから、僕がかいつまんで
お話しますね。」

その話をきくまえに、強欲なわたくしは自分の奇妙な心境のつぼみが咲き出すまえ
に質問しておきかった。
「その話をきく前に、お聞きたいことがあります。あの優雅な野鳥たちは、何時でも
パィヤスさんのことばに順応するのですか? 他の修道士さんたちのことばにも順応
しますか?」

この私の猜疑的な質問に彼はちらりと微笑みながら湖に視線をむえけ、
「僕がこの修道院にきたとき以前か彼られらはいましてね、もっと種類のちがう
鳥たちもたくさんいました、、、修道士によって野鳥たちにも、なつく鳥とそうで
ない鳥はいます。彼らにも人間と同じ意思があるようです。」

は~はぁ、'なつく’のと'なつかない'の違いは何なの? 野生たちはその
線をどこで引くのかなどと考え、彼に問うとしたその瞬間、、、
「人間と似ているところが彼らにもあるようで、中には臆病なものもいます。」
「お訊ねしようと思っていたのです。そのことを。でも先の行動にはそれとも
べつな要素があるように感じてなりません。パィヤスさんが魔法でもお使いに
なったと思うのですけど?」
彼は晴れ晴れとした楽しい表情で「あれは特別です! ときたま彼らが、なに
かに触れるようですね。それがなんであるのか自分もはっきりとは判りません。
とにかく彼らも演出がすきなのです。」と、自分の解答にまんぞくしたのか首
を振りながら、話をつづけます。




                                                            つづく
 

ある修道士との邂逅

 投稿者:モナド  投稿日:2017年 9月 9日(土)08時42分17秒
返信・引用 編集済
  その2)

「僕が幾十年もまえに盆栽の管理者に推薦されたとき、先輩のブラザ-から盆
栽に使う用土の配合から訓練されました。もちろん市売の用土もありましたが、
修道院は自営自給が原則です。ですから用土の生産からはじめます。この湖の
周囲はその原料が最高にそろっていますから、、、」と湖畔範囲を両手で指し
示し、「早朝にここにきて、赤土を乾燥させ粒にしたり、落葉や枯れ葦などを
集めて腐葉土やケト土等々をつくる仕事を何年間もしていました。ですから彼
らとはながい年月の仲間です。最初のころは僕を横目で厳重に観察されていま
したが、そのうちに信頼してくれるようになりなした。

それは新米者の修道院生活の大きな生き甲斐となりました。”と昔の映像を思い
だしたのか今の彼には似合はない大きな声で笑ふ。
私も、横目て厳重に観察されている情景を描き笑いだしてしまった。

「それでは、彼らとパィヤスさんの以心伝心ということにしましょう」
「ほう~以心伝心!いいことばです。そう云えば、僕もあなたとお会いした瞬
間に、その以心伝心の作用を感じました。それにぼくの間違いかもしれませんが、
四・五年まえにあなたをみかけたことがありましてね、、、あそこのア-チの下
で姉妹のようにして友人と昼食をされていました。」

私も思い出し、「では、あのとき孔雀に餌を、、、、」
「そうです、そうです。あのときの修道士です。」

私とバァシャは、良く二卵性双生児双子ではないかと、よく二人は間違えられ
ました。バァシャはゲルマン系、ドイツ生まれの戦争孤児でした。
そんなある日に、公園のベンチで泣いていた時、一人の慈悲のあるアメリカ兵に
見いだされ、彼の養女として引取られバァシャはアトランタ郊外で成長しました。
私がバァシャと出会ったのは、私が住んでいたコンドミデアンの新しい管理人と
して委任した男性の妻、それがバァシャでした。

そのとき孔雀の餌をまいていた修道士のそばに行きなにかを話していましたが、
戻ってくると御堂は開いているらしいから拝礼しよと、御堂に向かいました。

時間と空間は視野から消えさり、突然にさまざまのオ-ラ色彩が融合すると渦
巻きだけになりその渦巻きの洪水は広大な螺旋状に広がる。とありとあらゆる
ものは一体の透明な意識になった。

あのときの修道士だったのだ。なんという人生の構成であろうか!まさに過去
が今になったのだ。

「こうしてブラザ-・パィヤスさんに再会できたのは不思議です。あれから彼
女は夫の転勤で離別していらい、自分ひとりで時たまチャペルに参るのです。
さっきはパィヤスさんの問いを切断してごめんなさいね。どうぞ、記憶がさわ
ぎだすってことの続きを話してください。もう私の質問も終りました。」

「いいですよ、謝ることはありません。僕も昔のことなど考え出すことはめった
にありませんから、、、十分に楽しんでいます。ところであのお方は元気ですか、
羨ましいほどの親愛を感じたのですが」
このことば以上になにかを感じていたのでしょうか、私の目を覗き込む修道士の窪
んだ薄水いろの目はするどいものでありました。

私は、彼の、この目のために真実のことを話さなければいけないと感じ、
「彼女は一年前にこの世を去りました。白血病に長いこと蝕まれていたのです。
それで、彼女の夫は白血病専門病院に入院させるためにその地に移転しながら、彼女
を最後まで見守りました。」 その間、私の手に、彼の温かい感触がふれていました。

「そうでしたか、実はあの人と夢でお会いしました。」と、しずかに云いますが、聞い
た私は、跳びあがるほどに驚いて、ことばが巧く出ません。
「もしかしたら、、、」湧き上がる感情でことばが続けられませんでした。
「そうです。あなたと温室で会った日の、明け方の夢のなかであの人にお会いしました。
それで、あなたを見えたとき、僕は内心すごく動揺していまた。」


その彼の動揺の力はわたくしに湧き上がってくる感情を抑えてくれると同時に、彼女の
意図を理解した自分は平静にもどしたのです。
「あの日は彼女に後押しされたのです。彼女が亡くなってから始めての訪問でした。
彼女のことはこれくらいで、あのお話をしてください!」


「この話も夢からはじまります。」と少しばかりはにかんで云いました。

「僕が長崎という音語をはじべて知ったのも、夢のなかのことです。もちろんナガサキ
と正確な発音ではありませんでした。
1925年に誕生した僕はまだエレメンタル学校に入学したころの夢です。
ナガシキ、ナガシキの音語が毎晩つづきま、そのうちにハラト、ハラトの音語に移り僕
はきっとこれはギリシャ語だと考え母にたずねましたが、二つに同調する単語は探せな
いといって、この次にはね、夢に説明を頼んでごらん、答えがあるかもしれないと母は
まじめな顔で教えてくれたので、僕もそうしようと子供心に期待のような思いで夢見る
のが楽しみでした。

毎晩夢見るのを楽しみにして眠るのですが、不思議なことに、それから僕は夢を見ない
か、見ても覚えていないのか、ぴったりと止まってしまいました。」

「あなたのお母さんは、すごく賢い人ですね。普通の母親だったらそれでおしまいです。
それなのに夢に答えを求めるなんて思いつきもしません。それでどうしましたか?」
「僕はそのうちに忘れてしまいました。」と淡々と彼は云います。
「でも、ナガシキとハラトは、続いたのでしょう?」
「ナガシキとハラトは続きませんでした。」と苦笑いしました。

この苦笑いにあっけにとらわれている私を見て、新し笑いをしながら、
「その代用と云いますか、ナガシキ、ヒラトと続いたのは大学生になったばりで、学友
とふたりで寮生活をしていたそんなある朝のことでした。
学友がニヤニヤの顔を撫でながら、“ナガシキ・ヒラト、ナガシキ・ヒラト”と寝言を
いっていたよ。彼女の名前だろう?それ、君の驚くその顔では間違いない!
そのギリシャ美人とどこで会ったんだ?
彼の声は口からつぎつぎと飛び出してくるのですが、僕が返事もできないでいると、
彼はじらついた態度を残して外に出て行きました。」

「それからです、また毎晩の夢が続き、僕はもう5~6歳のこどもではありません。
ヒラトは判ってはいませんでしたが、ナガシキが日本の土地である長崎ことは知ってい
ましたから、日本の歴史や社会情勢に関する本を読んで、ヒラトも探し出しました。」

「それで、長崎県平戸島とだけは判断しましたが、それと僕が、どんな関わりがある
のか、どんな意味なのか、いぜんとして理解できないまま母の急病の通知で帰りました。
両親はニュ-ジャ-ジ-州に僕が3歳のときに親戚を頼ってアメリカに移民しました。」

「では、パィヤスさんはギリシャ産まれですね。お名前はそのままですか?」
「違います。戸籍上の名前はニコライですが修道士に合格したときに、今の名前を授け
られた修道士としての名前ですよ。でも家にかえると、母は二コラ、ニコラと子供のとき
のそのままで呼んでいくれました。」

いつも感じるのですが、西洋の男性の方たちは幾つになっても、すごく母親と親密な関係
により結ばれているように見えます。彼らの表情が少年時代にさかのぼり、女である者に
は何となく儚い気持ちが忍んできました。

「しばらくお会いになれなかったお母さんは、よろこばれたことでしょうね。」

「病院で会いましたが、思ったよりも元気で、学生生活のようすや、あれは食べているか、
これは食べていますかと、食生活を心配していたようです。
それから夢が、ふたたび活動したことを話しますと、母の目は輝きに変化し、子供のとき
と同じ提案をして、二コラ自身の思いをしずめて自然のままに夢に託しなさい。意気込み
さえしなければ巧く行きますよ。とアドバイスをしてくれました。」

何を考えているのか、ずいぶん長いこと彼は首をたれて沈黙していた。そして叢のうえに
彼の長い裾が波打つと、見えない足が裾のなかで小歩きをしはじめたのです。
この修道士の姿は、私の視野にまるで小さい子供が自分の感情を表現できずにもがいてい
るようにさえ見えたのでした。

彼はベンチに戻ってくると天中にきた太陽のひかりで煌いている湖を眺めていました。
「母はその翌々日に、少し昼寝をしたいと云ったきり、二度と目を覚ますことはありません
でした。」

あ~ぁ、この人はみずからの感情にもがいていたのではなく、無言の母の死顔を振るいはな
していたのだと気付くと、涙がにじみました。


生きている者の無力と頼りなさ、寂しさ、悲しさ、それ以上に行き場をなくしてしまった人
への“愛”の涙だったかもしれません。
修道士は自分のほそい指先でわたくしの涙に触れ、「見てごらんなさい、太陽のひかりで
輝いていますから、もう大丈夫ですよ。母も涙もろい人でした。」

何故なんでしょう! 人間の精神感性の活動には、肉体活動のなんばいもの疲労を消耗す
るように気付かされる。すると胃袋さえなえてしまい小言をいいだすのも無理はありません。
それで胃袋を満足させるために、私は修道士を促しと近くの町に食事に車を走らせました。

窓際に席をみつけて、ブラザ-パィヤスは野菜ス-プにライパンの卵つぶしサンドイッチ。
私はキャベツの刻みサラダをはさんだホットドッグ二個とチキンス-プの昼食を摂りました。

修道士ともなると、食事が終るまで無言でよそ目もしません。主食の前の短い儀式。
そして、食べおわると再びの短い儀式、私などには勤まる可能性はありませんね。
ずぼらなわたくしと思われると恥ずかしので書き加えますが、食物への感謝は胸の内
でします。



                                    つづく




 

ある修道士との邂逅

 投稿者:モナド  投稿日:2017年 9月 9日(土)08時38分57秒
返信・引用 編集済
  その3)

そして車を走らせ修道院にかえると、二人はあのクリの木のしたで肢をのばし胃袋のまんぞくを感じながらしばらく薄い雲の流れをみつめていました。湖の静寂はお昼寝の時間なのでしょうか、白鳥、鴨の一声も聞こえない。

「ご存知のように僕はフランシスコ会の修道士です。教義には過去世のことはありません。しかし修道院の裏側ではときたまそれに関することは耳にすることは稀にあります。
僕が長崎平戸を調査していたのが、キリシタン迫害でした。そのなかの二人の男性は火炙りの死刑になっています。 どうもその一人の過去に自分は関係しているように思うようになりました。」

修道士はそこまで語るのに大きな深呼吸を何度もし、草むらに吐息をはいて目を閉じていました。
「とても残念ですが、自分はキリシタン迫害に到った史実の経過の大きな知識はありません。それでお聞きしたいのは、火炙りの死刑の一人だったと思いになる要素といいますか、根拠はどうして起きたのでしょう?できたらそれをお話くださいませんか?」と云ました。

「僕の話は少し急性すぎましたね。両親はギリシャ文化で育ちましたから、転生輪廻は信じるといいますか、容認していました。アメリカにきてからも両親は東方正教会に属していましたが、父の死亡で、必ずしもそれが本音でなかったことを知りました。母も自分の遺体を火葬したら、お父さんと同様に故郷のギリシャのカサァンダラ半島の海からスプロスに向かって灰を流すように、と兄に遺言を残していました。」

この半島はマケドニア文明で栄えアレキザンダ-大王の政治運動者として名前をのこした歴史家のアリストブロス・カサァンダィラの苗字を取った半島なのです。

時代が近代になり、フランス革命に扇動されたギリシャはオスマン帝国から開放されたいが為に、1821から1829年におよぶ独立戦争を興し、バリカン半島をなしている三の半島は戦争の激戦地となり半島の隅から隅まで破壊され、住人たちはエゲイ海の小島へと小船にのって逃げてしまい、半島は30年間のあいだ無人半島になりました。その後に元の住人は帰ってきました。が、修道士の先祖はスキロス島にとどまり、三男だった彼の父はアメリカに移住する決断をしたのです。

「僕たち家族は移住してから初めて、僕のハイ・スク-ル進学と兄の大学卒業を記念してスキロスへ一緒に里帰りしました。小さな小さな、ほとうに小島ですが海と風と夜空がすばらしいく魅力的な小島でした。
その旅行のなかで母からマケドニア文明の歴史には、たくさんの釈尊仏陀の影響があったと聞きました。それから「すべての生命は無から生まれ無に帰る、そのサイクルをしながら、あるときそのサイクルの輪のなかで必ず再結すると云います。ですから、もしもお父さんやわたくしと離別するときがきても、決して、決して運命にそむいてはいけませんよ。それに、二コラ自身とも再会しますからね。父はそれから一年も経たずに亡くなりました。」
そのときの母の言葉はいまでも忘れていません。

「パィヤスさんはお母さんからすばらしい影響をいただきましたね。こう申しては失礼ですけど、では何故、フランシスコ修道士を自分の生涯と選択されたのでしょうか? 仏教の精神世界のほうが、もっともふさわしいように考えられますけど。」

彼はうなずきながらわたくしの目を凝視していましたが、
「火炙りで処刑されたのはセバスチャン・キムラともう一人はチャ-ルス・スピノラでした。このスピノラを母の死後に夢にみるようになり様々なことを学びました。牧師セバスチャンとしばらく過ごした長崎平戸島の風と海と夜空は今生うまれたスキロス島にたいへん良く似ていました。そのことが強いインパクトになり、僕の心からはなれることはありません。」

「あの時代の大学図書館では、神父スピノラに関する資料をさがしてもありませんし、兄に相談すると、ワシントンDCのフランシスコ会の修道院を訪ねたらどうだろうと教えてくれました。ちょうど大学が隣の州ですから訪ねるて行き、宗教思想と哲学思想の比較学理論をまとめるためにカトリック教会百科辞典とキリスト東洋伝道の歴史などを二~三週間借り出せないか願書を提出すると、教授の覚書きされあれば許可されることになりました。」

「それでスピノラの夢の話は実史である確証を得たので、借りた書籍を修道院に返しにいったとき受付からメモ紙を手渡されました。その紙には、チャペルの階段の脇で会いたいと書かれ、その下にブラザ-アンブロシャ-とサインがありました。それで外に出てチャペルの階段に腰掛けていると、四十歳ぐらいの背丈の高い修道士の姿が並木の小道にみえかくれしてチャペルに向かって近づいてきました。」

「階段の脇に立っいる僕を見ると微かに頭をさげ、“提出された願書を受け付けに頼んでいたのはこの私です。ところで、私が惹かれたのは東洋伝道の歴史に興味を持った君にすこしおどろいています。神学専門家でも避ける分野に興味を示す君の話しを聞きたいと思い、受付にこれこれの本が届いたら連絡するように頼んでいたのです。”と卒直にお話されました。」

「彼はチャペルの横にある中庭のほうに歩きだしました。その後につづきながら、僕はどうんな返答をすべきか頭の中で整理をしていましが、回転ばかりでよい知恵はまとまりません。御影石のベンチをさして掛けるようなしぐさにさそわれ僕はかけましたが、彼は太陽の陽をせにして僕を見ろした目線にやさしさが感じるものがあった影響なのか、自分の頭の回転もおちついてきました。」

深い黒地服のブラザ-アンブロシャ-を見上げて、僕は本当の動機を言いました。
「自分の研究は専門的なことではありません。ちょっとした個人的な成り行きです。」
「個人的な成り行きですと?」
「そうです、、、いけなかったのでしょうか?」
僕は教授まで巻き込み、個人的な理由で本を借り出した後悔に気付いて、お説教を受ける覚悟をして自分の膝の上で両手を握りました。

その態度に彼はどう感じだのか、「それはいいでしょう。しかし個人的な成り行きとは、ただごとではありません。修道士としては、ここで聞き捨てることはできません。」   彼の冗談とも真面目ともとれる面持ちでいるのが、膝の上におとしている自分の目でも感じられるのでした。この場合の僕にはお説教をされるほうがどれだけ楽なことかと、小賢しく考えでいることを修道士に見抜かれたのかのように、彼はス~ッと僕のそばに掛けると再び云います。

「修道院の内部の修道士として何も聞かず君をかえすことはできませんね。困るようなことはありません。さあ聞かせてください。」
僕は最後の聞かせてくださいを聞いたとたんに、もしかすればこれはよいチャンスなのかもしてない、独りで詮索しているよりも、なんらかの出口がみえてくるような気持ちが強くなりました。

人に頼るということに慣れずに生きてきた僕でしたが(母は別です)、今までの経過をそのままに要所、要所の話を静かに耳を傾けていましたが、彼は僕の手を取り立ちあがると囁くように言います。
「ここの修道院の祭司も、君のような体験者の一人です。フランシスコ会の伝道者たちは東洋で一番多く殉教しました。私ですか?」と、彼は両手を袖口かた取り出して快活に大笑いして、「いつでも、訪ねてきなさい。祭司の話も勉強になりますよ。」と長い黒の裾のなかで踵を返したとたんに、僕を振り返って、「神父チャル-スの精神にはとうてい追いつけません。それでは、またお会いしましょう!」と云うなり立ち去りました。

彼の立ち去るすがたを目で追いながら、チャル-ス神父の精神にはとれも成れるものではないと自分も考えていました。

このチャル-ス神父;1564年にチャル-ス・スピノラはタサァロ-レォ伯爵の息子としてのイタリアのジェノヴァに誕生しました。彼はノ-ラ・ナポリのイェズス会学校で教育を受け、1584年に見習いに入り、1594年に聖職者の資格があたえられ、彼の望みでもありましたが、1596年に日本の宣教師に任命されました。

しかし日本への旅船が難破してイギリスの貨物船に救急され目的地の日本に着いたのは6年も遅れた1602年のことでした。

日本に着くまえに、船旅の疲労を回復するため彼はマカオの修道院でしばらくの養成期間を過ごします。そこで彼は日本から来ていた宣教者や伝道者たちに出会ったその時、キリスト教徒に対する弾圧、迫害と一括りに教会は破壊され、1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されていることを知りましたが、セバスチャン・キムラ宣教者と懇意になり日本国内のキリスト教徒たちの立場が厳しくなっいる、そのような情勢にもかかわらず他の宗派の宣教者たち数名と一緒に、マカオからイギリス船で平戸港に上陸したのでした。

それからの12年間の彼は、日本にクリスチャン共同体の発展ために聖職者の務めにはげみましたが、1614年になると、すべての外国の宣教師や伝道士たちは消えさり隠れ場を転々としながら、現実はまるで犯罪者のように追われる身となりながらも、日本のクリスチャン信仰者たちに、彼らは神の使徒として自らを捧げていったのです。そした或る日、チャル-スは侍の役人大勢に捕らわれ連れてゆかれたのが長崎市内の薄暗い牢屋に閉じ込められ、そこで4年間を過ごしました。

そして車を走らせ修道院にかえると、二人はあのクリの木のしたで肢をのばし胃袋のまんぞくを感じながらしばらく薄い雲の流れをみつめていました。湖の静寂はお昼寝の時間なのでしょうか、白鳥、鴨の一声も聞こえない。

「ご存知のように僕はフランシスコ会の修道士です。教義には過去世のことはありません。しかし修道院の裏側ではときたまそれに関することは耳にすることは稀にあります。
僕が長崎平戸を調査していたのが、キリシタン迫害でした。そのなかの二人の男性は火炙りの死刑になっています。 どうもその一人の過去に自分は関係しているように思うようになりました。」

修道士はそこまで語るのに大きな深呼吸を何度もし、草むらに吐息をはいて目を閉じていました。
「とても残念ですが、自分はキリシタン迫害に到った史実の経過の大きな知識はありません。それでお聞きしたいのは、火炙りの死刑の一人だったと思いになる要素といいますか、根拠はどうして起きたのでしょう?できたらそれをお話くださいませんか?」と云ました。

「僕の話は少し急性すぎましたね。両親はギリシャ文化で育ちましたから、転生輪廻は信じるといいますか、容認していました。アメリカにきてからも両親は東方正教会に属していましたが、父の死亡で、必ずしもそれが本音でなかったことを知りました。母も自分の遺体を火葬したら、お父さんと同様に故郷のギリシャのカサァンダラ半島の海からスプロスに向かって灰を流すように、と兄に遺言を残していました。」

この半島はマケドニア文明で栄えアレキザンダ-大王の政治運動者として名前をのこした歴史家のアリストブロス・カサァンダィラの苗字を取った半島なのです。

時代が近代になり、フランス革命に扇動されたギリシャはオスマン帝国から開放されたいが為に、1821から1829年におよぶ独立戦争を興し、バリカン半島をなしている三の半島は戦争の激戦地となり半島の隅から隅まで破壊され、住人たちはエゲイ海の小島へと小船にのって逃げてしまい、半島は30年間のあいだ無人半島になりました。その後に元の住人は帰ってきました。が、修道士の先祖はスキロス島にとどまり、三男だった彼の父はアメリカに移住する決断をしたのです。

「僕たち家族は移住してから初めて、僕のハイ・スク-ル進学と兄の大学卒業を記念してスキロスへ一緒に里帰りしました。小さな小さな、ほとうに小島ですが海と風と夜空がすばらしいく魅力的な小島でした。
その旅行のなかで母からマケドニア文明の歴史には、たくさんの釈尊仏陀の影響があったと聞きました。それから「すべての生命は無から生まれ無に帰る、そのサイクルをしながら、あるときそのサイクルの輪のなかで必ず再結すると云います。ですから、もしもお父さんやわたくしと離別するときがきても、決して、決して運命にそむいてはいけませんよ。それに、二コラ自身とも再会しますからね。父はそれから一年も経たずに亡くなりました。」
そのときの母の言葉はいまでも忘れていません。

「パィヤスさんはお母さんからすばらしい影響をいただきましたね。こう申しては失礼ですけど、では何故、フランシスコ修道士を自分の生涯と選択されたのでしょうか? 仏教の精神世界のほうが、もっともふさわしいように考えられますけど。」

彼はうなずきながらわたくしの目を凝視していましたが、
「火炙りで処刑されたのはセバスチャン・キムラともう一人はチャ-ルス・スピノラでした。このスピノラを母の死後に夢にみるようになり様々なことを学びました。牧師セバスチャンとしばらく過ごした長崎平戸島の風と海と夜空は今生うまれたスキロス島にたいへん良く似ていました。そのことが強いインパクトになり、僕の心からはなれることはありません。」

「あの時代の大学図書館では、神父スピノラに関する資料をさがしてもありませんし、兄に相談すると、ワシントンDCのフランシスコ会の修道院を訪ねたらどうだろうと教えてくれました。ちょうど大学が隣の州ですから訪ねるて行き、宗教思想と哲学思想の比較学理論をまとめるためにカトリック教会百科辞典とキリスト東洋伝道の歴史などを二~三週間借り出せないか願書を提出すると、教授の覚書きされあれば許可されることになりました。」

「それでスピノラの夢の話は実史である確証を得たので、借りた書籍を修道院に返しにいったとき受付からメモ紙を手渡されました。その紙には、チャペルの階段の脇で会いたいと書かれ、その下にブラザ-アンブロシャ-とサインがありました。それで外に出てチャペルの階段に腰掛けていると、四十歳ぐらいの背丈の高い修道士の姿が並木の小道にみえかくれしてチャペルに向かって近づいてきました。」

「階段の脇に立っいる僕を見ると微かに頭をさげ、“提出された願書を受け付けに頼んでいたのはこの私です。ところで、私が惹かれたのは東洋伝道の歴史に興味を持った君にすこしおどろいています。神学専門家でも避ける分野に興味を示す君の話しを聞きたいと思い、受付にこれこれの本が届いたら連絡するように頼んでいたのです。”と卒直にお話されました。」

「彼はチャペルの横にある中庭のほうに歩きだしました。その後につづきながら、僕はどうんな返答をすべきか頭の中で整理をしていましが、回転ばかりでよい知恵はまとまりません。御影石のベンチをさして掛けるようなしぐさにさそわれ僕はかけましたが、彼は太陽の陽をせにして僕を見ろした目線にやさしさが感じるものがあった影響なのか、自分の頭の回転もおちついてきました。」

深い黒地服のブラザ-アンブロシャ-を見上げて、僕は本当の動機を言いました。
「自分の研究は専門的なことではありません。ちょっとした個人的な成り行きです。」
「個人的な成り行きですと?」
「そうです、、、いけなかったのでしょうか?」
僕は教授まで巻き込み、個人的な理由で本を借り出した後悔に気付いて、お説教を受ける覚悟をして自分の膝の上で両手を握りました。

その態度に彼はどう感じだのか、「それはいいでしょう。しかし個人的な成り行きとは、ただごとではありません。修道士としては、ここで聞き捨てることはできません。」   彼の冗談とも真面目ともとれる面持ちでいるのが、膝の上におとしている自分の目でも感じられるのでした。この場合の僕にはお説教をされるほうがどれだけ楽なことかと、小賢しく考えでいることを修道士に見抜かれたのかのように、彼はス~ッと僕のそばに掛けると再び云います。

「修道院の内部の修道士として何も聞かず君をかえすことはできませんね。困るようなことはありません。さあ聞かせてください。」
僕は最後の聞かせてくださいを聞いたとたんに、もしかすればこれはよいチャンスなのかもしてない、独りで詮索しているよりも、なんらかの出口がみえてくるような気持ちが強くなりました。

人に頼るということに慣れずに生きてきた僕でしたが(母は別です)、今までの経過をそのままに要所、要所の話を静かに耳を傾けていましたが、彼は僕の手を取り立ちあがると囁くように言います。
「ここの修道院の祭司も、君のような体験者の一人です。フランシスコ会の伝道者たちは東洋で一番多く殉教しました。私ですか?」と、彼は両手を袖口かた取り出して快活に大笑いして、「いつでも、訪ねてきなさい。祭司の話も勉強になりますよ。」と長い黒の裾のなかで踵を返したとたんに、僕を振り返って、「神父チャル-スの精神にはとうてい追いつけません。それでは、またお会いしましょう!」と云うなり立ち去りました。

彼の立ち去るすがたを目で追いながら、チャル-ス神父の精神にはとれも成れるものではないと自分も考えていました。

このチャル-ス神父;1564年にチャル-ス・スピノラはタサァロ-レォ伯爵の息子としてのイタリアのジェノヴァに誕生しました。彼はノ-ラ・ナポリのイェズス会学校で教育を受け、1584年に見習いに入り、1594年に聖職者の資格があたえられ、彼の望みでもありましたが、1596年に日本の宣教師に任命されました。

しかし日本への旅船が難破してイギリスの貨物船に救急され目的地の日本に着いたのは6年も遅れた1602年のことでした。

日本に着くまえに、船旅の疲労を回復するため彼はマカオの修道院でしばらくの養成期間を過ごします。そこで彼は日本から来ていた宣教者や伝道者たちに出会ったその時、キリスト教徒に対する弾圧、迫害と一括りに教会は破壊され、1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されていることを知りましたが、セバスチャン・キムラ宣教者と懇意になり日本国内のキリスト教徒たちの立場が厳しくなっいる、そのような情勢にもかかわらず他の宗派の宣教者たち数名と一緒に、マカオからイギリス船で平戸港に上陸したのでした。

それからの12年間の彼は、日本にクリスチャン共同体の発展ために聖職者の務めにはげみましたが、1614年になると、すべての外国の宣教師や伝道士たちは消えさり隠れ場を転々としながら、現実はまるで犯罪者のように追われる身となりながらも、日本のクリスチャン信仰者たちに、彼らは神の使徒として自らを捧げていったのです。そした或る日、チャル-スは侍の役人大勢に捕らわれ連れてゆかれたのが長崎市内の薄暗い牢屋に閉じ込められ、そこで4年間を過ごしました。



                                     つづく






 

ある修道士との邂逅

 投稿者:モナド  投稿日:2017年 9月 9日(土)08時10分40秒
返信・引用 編集済
  その4)

大きなクリの枝葉から射している昼下がりの陽は、なぜか古代からの贈りもかもと思うく
らい新鮮なひかりは透明なかおりにみちあふれ、ブラザ-・パィヤスの目を閉じた沈黙の
すがたを抱擁しているかのようだった。

それまで気づかなかったのであるが、ブラザ-・パィヤスの白布の裾波のくぼみにうす
みどりのカマキリが休んでいるではありませんか。まるでそこが自分のいる場所ででもある
かのようにして、、「あのアンブロシャ-修道士も兄も帰ってきませんでした。」

まるで独り言のような呟きが私の耳をかすめてゆき、自分は我に返えり、彼に目をうつ
しながら、「どういうことなのでしょう?」と自分でも驚くような強いひびきを発しました。
「第二次世界大戦争から、帰ってきませんでした。」 彼は消えそうな声で云います。

あの戦争はここでも、終っていなかった。どれだけの人間の魂に傷跡を残した戦争だったの
であるのかと、私が改めて考えていると、
「、、、ぼくが修道士になった原因をまだお話していませんでしたね。」
パィヤス修道士は新たにエネルギ-を入れ替えて話を続けました。

「あれから、(本を返したときから)ブラザ-・アンブロシャ-と二回お会いしました。
一回めは彼のほうから大学に連絡のこと付けがありましたが、ちょうどその時は、兄にアン
クル・サム(アメリカ合衆国軍制の召集令状または募集令状に使われる)からの召集令状が
届いて、彼の出兵のためにニュ-ヨ-クに帰っていたので、二週間ほど遅れて修道院に出向
かいました。
その時、こんどは修道院の質素な応接間で司祭者のト-マス・カ-クランドとブラザ-・
アンブロシャ-と対話をしている流れの中で、カ-クランド司祭の謎も判りました。

彼はジュニア・ハイスク-ル時代に友人たちと山道をサイクリングしていたとき、カ-ブを
誤って自転車もろとも崖からころがり落ち生命危険状態になり意識が回復するまで二日
かったそうです。その間の彼は今でいうところの、体外離脱体験をされたそうです。
そのことを両親にもだれにも話すことはしなかったといわれます。
そのことをブラザ-・アンブロシャ-は君に似たようなと、云われたのでしたね。」

「僕の場合は夢の中ですから、、、スピノラ神父の話のすべてを記憶できているわけでは
ありません。それに較べるとト-マス・カ-クランド司祭は驚くほど仔細です。
“たとえば、、、”と、ことばをさえぎり、“彼の場合はすべてを記録映画のようにして脳
髄に移植されたのだと考えています。
でなければ自分が死ぬ瞬間の頭上の光景をどのように説明できるのでしょう。」

「頭の上の光景ですって?」と、私はきき返しました。
しばらく枝葉にそそいでいた目がさ~っと遠くをみるように動くと、
「チャ-ルス・スピノラはもちろん三時間という長い火炙りでしたから、、、でも、最後の
瞬間のことは、そうです、かれの最後は積まれた薪のもえるそばで死んでゆくキリシタンの
母親が幼子を胸に抱いているところにスピノラは力つきて倒れ込みました。
それが長崎大村の最後の光景です。

それに、ト-マス・カ-クランドは海の浅瀬に十字架に縛られ満潮の拷問をうけながら3日
後の満潮のなかで死ぬ瞬間に海も空も消えて柔らかい光一元の世界が頭上に広がったと云い
ます。その話のときの司祭の表情は、この世の歓喜ではありませんでした。」

「そこうしている内に大学構内でも人影がだんだんと少なくなり、もしかすれば自分にも召
令状が届くのではと不安状態にいるとき、兄よりハガキを受け取りました。
彼はいまいる訓練基地から西海岸に移動してからの行く先は報告されていない、とあったので、
僕は自分の不安状態を柔和するために、兄と逢いたいくキャンプ・デェヴィドに行きました。

僕が帰ってくるとト-マス・カ-クランド司祭からの伝言がありました。
それでブラザ-・アンブロシャ-の従軍神父として奉公活動を知り、修道院へ走車しました。
ほんとうに短い時間の面会でありましたが、この時点で僕はこの修道院の修道士になる決意
をしたのでした。

僕のここでの修道院の生活二年目の時に、アンブロシャ-神父は南太平洋のガタルカナル島
のジャングルで死亡され、それに、三年で兄をノルマンデイ激戦で亡くしました。
カ-クランド司祭も終戦の一年後に静かに逝かれたので、僕は1946年にここのフランシスコ
会修道院に移転してきました。」

話おわった年老いた修道士の、すっきりした顔には晴れやかな笑顔さへ漂っていました。
その笑顔をみている私は、彼のいままでの人生が消え去ってゆくように感じたのです。

彼の人生に深く関わった両親とただひとりの兄を亡くしそれに、アンブロシャ-神父を亡く
し、カ-クランド司祭に逝かられた孤独のなかで、生身の人間修道士として、あの長崎大
村で1622年の9月10日に殉教した彼と、どんな違いがあるのかと私は考えるのでした。

「ここの修道院に移転してきて、このクリの木と出会えた幸運に感謝です。
きっと彼らも安心しているでしょうね」と、大きな幹を年老いた両手で撫でています。
私はクリの木の幹に耳をあて、幹から押し寄せてくる鼓動をいつまでも聴いていますと、
年老いた修道士も反対側の幹に耳をあていたのです。
それがパィヤス修道士との最後となりました。

修道院の葬儀はまことに簡素なものでありました。手作りの板で作られた寝棺は子供用のよ
うに小さかったし、一本のお花さえも供えられてはいなかった。
それでも高い天井下に施されたステングラスがかもしだす光の燦爛は、この薄明かりの細長
いチャペルに厳粛さで包含していた。

私は葬儀の終りをまたづに、心の奥で現世のお別れと感謝を告げると、もう再度来ることは
ないだろうと小さい脇ドアから外に出た。

それに、双子と思われたバ-シャの葬儀もまことに簡素なものでありました、、、。



追憶:修道院のチャペルに入った右側に小さい陶器の盆一杯の“聖水”で、その水で手と額
を清めると、右側の狭い階段をあがると、最初のおどり場に上下三段にわかれ長椅子が九つ
に設備されていました。
バ-シャと私は前列の長椅子に掛けました。
それまでの、群衆教会とは、全然ことなった雰囲気でした。
とっても簡素で質素ですが、高窓のステンガラスから差し込む光。
それは、この世から隔離されていた。

                                    終り

*** これを作成したのは、9年前でした。

 

「自他一体」の体験

 投稿者:モナド  投稿日:2017年 8月31日(木)01時35分35秒
返信・引用
  真我の内面に目覚め、実相を悟ることが「自他一体」の感覚を認識するための究極の道程で

 はないのでしょうか? もしも、到達できなとしても、それを真摯に繰り返すたびに、

「自他一体」の感覚は冴えるでしょう。

この「自他一体」を体験したのが、二十世紀の聖人とされたクリシュナムルティなのです。

彼は最初の最も不思議な体験をしたのです。


 1922年の8月17日、彼はカリフォルニアのオ-ハイで

その後の彼の人生を一変する体験に遭遇しました。

 それは、クリシュナムルティ22歳の年でありました。

 彼は、その時の体験を、詩にまとめました。



『車道を補修している男は、その人は自分自身なのだ:

上げている彼のツルハシも自分自身であり

ツルハシに砕かれた大きな石の欠片も自分の一部だった

 一枚の草の葉は自分の存在そのものであり

 男の後ろにたたずむ木々も自分自身だ

 自分の感性や思いは道路修理工そのものに融合した

 梢を通りすぎる風を感じ、草葉の上の小さい蟻たちを感じた

 草のつぼみも、ちりも、そしてあらゆる雑音も自分の一部である

ちょうどそのとき遠くで走り去る自動車;

 自分は運転手であり、そしてエンジンであり、タイヤであった

 自動車は自分から遠くに去って行く

わたくしも自分自身から去って行く

 自分の中のなにもかも;それはむしろなにもかもが自分であり、

 そして、無生物も生命を吹き込まれ

 山々も、昆虫たちも、それから生きとし生けるもの全てが

・・・わたくしのなかに生存した』


 晴れた、毎朝の愛犬との散歩の折にモナドは、クリシュナムリティの

 上の詩のような感覚でいますが、、、

 現実的には、残念ながら至りません。


 全てを忘却する、、、ある瞬間にだけ不思議に発生します。


 もしかすれば、全ての忘却とは、自我との決別かもしれません!!!

 

Re: 御無沙汰

 投稿者:Angela  投稿日:2017年 8月30日(水)05時06分32秒
返信・引用
  > No.1876[元記事へ]

モナドさんへの返信


> モナドのよけいな、オセツカイですけど、AngelaさんのDNAと会話されるのが、最も早道ですよ。
>
> 自分はそれを実践して、80歳まで病気なしできました。
>
> コロギの美しい唄声が窓から聞こえます。
>
> これから訪れる、秋の素晴らしいさを、ご堪能してくだせいませ。

腰を痛めたのは、一か月ほど、ある不安をもち続けていたからです。てきめんでした。
結局、自分自身なんですよね。「DNAと会話」さっそく実践してみました。ありがとうございます。

私の住んでいるところは熱帯夜が続いていますが、それでも夏から秋の唄声に変わってきました。
移り変わりの美しさにしたっているAngelaです。


 

Re: 御無沙汰

 投稿者:モナド  投稿日:2017年 8月28日(月)00時56分22秒
返信・引用
  Angelaさんへの返信


ほんとうに、お久しい振りですね!!!


この地球惑星で人生を過ごすことは、様々な予想しない体験と遭遇しますね。
もしかすれば、それだからこそ、私たちには”感情”という元素を与えられたのでしょうね!?


> つい先日 腰を痛めてMRIを体験。なんとも不思議な音と空間。磁力がモソモソ体を走り宇宙空間のようだった。ちなみに宇宙に行ったことはない。(笑)
> 痛めて曲がった腰椎も「おお、治ってるなぁ 不思議だ」と医者に言わせようと精神力でがんばるぞ。

モナドのよけいな、オセツカイですけど、AngelaさんのDNAと会話されるのが、最も早道ですよ。

自分はそれを実践して、80歳まで病気なしできました。

コロギの美しい唄声が窓から聞こえます。

これから訪れる、秋の素晴らしいさを、ご堪能してくだせいませ。

お話できて、深く感謝申しあげます!!!
 

人造人間 

 投稿者:モナド  投稿日:2017年 8月28日(月)00時22分5秒
返信・引用 編集済
  2016年8月、物理学者のグレゴリ-・マッロフ博士は;人間自身の意識を越え拡張され、

宇宙自身の認識をもって主張している。とする書類を出版しました。この観念を支持した

のが、かの有名な、クリストフ・コッホと、ロジャ-・ベンロ-ズ卿のような卓越した

科学者でした。その他に、再生を研究している研究者たちも、なぜ魂が継続的にリサイクル

されるか,その説明にも、役立っかもしれないと強調しています。そこで人間が、繰り返し

の再生のプロセスに従のは己に課せられた自身の一部であるより大きい意識があるのです。

要するに、意識をアップロ-ド、ダウンロ-ドしながら共通の情報で物体を作成している、

この宇宙意識の膨張性と抱擁力は壮大なのです。


それは人間が、地球でこの不動産を今この場で見る制限された方法を過ぎる、人間の三次

元現実を越える可能性の想像を可能にします。しかし、古代宇宙飛行士理論家の何人かが

提案するように、地球外生命体による魂の乗物のために人体が作成されたのであれば、

その共有された宇宙意識への人間の経験なのであるのかもしれない。もしもそうであれば、

人間の異星人起源の真実を暴露する鍵は、今日、人類の仲間として生存し歩いていいるか

もしれない。


現在この地球惑星の地上で人生を歩いている魂は、非常に長い長い期間、そして、古代の

過去に訪れた地球外生命体まで遡るかもしれません。人類の過去の真実は、確かに人類の

未来への部分でもあります。

地球外生命体の生まれ変わる魂は、数千年および数千年の間、人類を指導し人類を誘導し、

人類に様々な目的に達成のために援助して、何度も、何度も可能な限り人類のために、大い

に手助けしてくれました。


地球外生命の存在の世界を、人類は自覚する必要があり、これらの魂が過去から直接的な

証拠と知識をもたらした地球外生命の生物としての自覚と任務を果たすための用いられてい

ると、理解することです。幾数千年も前に地球に来た人類は、他の次元の存在の魂を伝える

ように計画された可能性があるかもしれないのです。

おそらく、輪廻という課題について、人類がより多くを学べば、一人一人の範囲内で深く

接種された古代の知識にアクセスすることが、人間は可能なのです。


地球外生命の過去に付いての当たり前のことが、人類がこれまでに理解し、実現してきた

多くは、敗者であったことを、人間は発見しなければなりません。



***この説を読んだモナドは、自分の霊魂の真実はそうだな~~と感じました。


 

御無沙汰

 投稿者:Angela  投稿日:2017年 8月26日(土)13時04分42秒
返信・引用
  この精神世界を自分なりに探求して、もうウン十年も経ってしまった。インターネットという媒体を通して様々な情報を楽しんできた日々。久しぶりに精神世界関係のサイトを覗けば、完結したHPは閉鎖されていることが多い。でもここは、こっくりペースで継続しているのでうれしい(笑)
6月19日付の記事は、いよいよ私の時代が来ると共感した。美術系の仕事をしているので、想像(創造)の世界は得意である。
それから、「病は気から」が科学的に証明された なんてニュースでやっていたことも驚いた。そんなこんなで私たちは進化しているなぁ~と改めて思った。
で、こっくりさんとモナドさんは元気そうでなにより~。
さて、これから奇人変人と思われない世界に突入なんて楽しいわ。

つい先日 腰を痛めてMRIを体験。なんとも不思議な音と空間。磁力がモソモソ体を走り宇宙空間のようだった。ちなみに宇宙に行ったことはない。(笑)
痛めて曲がった腰椎も「おお、治ってるなぁ 不思議だ」と医者に言わせようと精神力でがんばるぞ。
 

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